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古くは出雲と大和を結ぶ「砂鉄の道」として、江戸時代には「参勤交代の道」として、あるいは「生活の道」として
津山から西(松江)に延びる出雲道と東(姫路)に延びる播磨道が結ばれ、出雲街道と呼ばれている。
江戸時代の1813年(文化10年)には、伊能忠敬がこの街道の東新町などを測量している。
城東地区には商人の町職人の町として栄えた当時の町並みが残り、「平格子」「出格子」「なまこ壁」「袖壁(うだつとも言われる)」
「歴史を物語る伝統的な看板や、酒林(杉の葉を束ねて球状にし酒屋の看板にしたもの)が掛る造り酒屋」などを見ることができる。
街道から南へのびる勝間田町の路地には白壁の土蔵も残っている。
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